02-00900 本御門跡御坊信證院

ほん御門跡ごもんせき御坊ごぼう信證院しんしようゐん


[本願寺御門跡堺御坊、善長寺、成就寺 全景]


本願寺ほんぐはんじ御門跡ごもんぜき堺御坊さかいごぼう

神明町の東にあり
文明年中樫木かたぎ道顕だうけんといふものありて我居宅わがきよたくわけたう院を建立こんりう蓮如れんによ上人にけん
道顕だうけん我居宅わがきよたくより廊下ろうかをしつらひたゞち寺内じないに入日夜にちや叅詣さんけいして佛恩ぶつをんほう
故に樫木屋かたぎや御堂みだうとも

本尊阿弥陀佛

本願寺第十二代准如じゆんによ上人の作
みたけ三尺壱寸四分御足おあしうら判形はんぎやうありてこれをつくるとこくし給ふ
の本尊は聖德太子の御作也
今江戸築地つきちの御堂にうつし安置せらるゝ也

開山親鵉しんらん聖人しやうにんのゑい

本尊の左の檀に安置す
れん如上人の筆
本願寺前住ぜんぢう上人ゑい 聖德しやうとく太子影 法然ほうねん上人影共に右檀みぎたんに安置す

そも〱當院たうゐん開基かいきは本願寺第八代蓮如れんによ上人なり
此地に初足利あしかゞ義氏よしうぢ四男しなん祐氏すけうぢといふ人ありて
父母ふぼ没後もつこ薙染ちぜんして天王寺に住職ぢうしよんし其後本願寺第三代覺如かくによ上人にゑつして一向いつかう専修せんしゆ念佛ねんぶつ行者ぎやうじやなり源光寺げんくはうじ草創さう〱前に見へたり
足利あしかゞ將軍しやうぐん尊氏たかうぢ同姓どうせい旧縁きうゑんによつて寺地じち租税そぜいを除き封田ほうてん三百せきいる
暦應れいをう年中祐氏すけうぢ入道にうだう祐源ゆうげん没後もつこ封田ほうてん蓮如れんによ上人にたてまつ
御堂みだう樫木かたぎ道顕だうけんいとなみ蓮如れんによ上人を招請せうじやう
本堂及び書院しよゐん對面所たいめんしよとう美麗びれいにしてつる古法眼こほうげんふで
黒書院くろしよゐん探幽たんゆうぐは
其外〱は多く竹隠齋ちくいんさい敬甫けいほふでにしてあゆ筆力ひつりよく眞妙しんめうなり
画工ぐはこう規範きはんとする也

信證院しんしやうゐん

蓮如上人の号
廟堂べうだうみなみかたにして中祖ちうそといふがくあり
礼堂らいたうがく丕𣴎堂ひしようだうしよして共に法如ほうによ上人のふでなり
はじ蓮師れんし當院たうゐん僑居けうきよし給ふ時契丹國けいたんこく詹仲和せんちうくはといふもの観音くはんをん示現じげんかうふ渡海とかいし此に來り蓮如れんによ上人の法水ほうすい入し德澤とくたくあをぎこれぞ大悲たいひ霊告れいこう也とて歓喜くはんき帰國きこくのち謝恩しやをんため芳書はうしよをく今本願寺にあり
彼國かのくに画圖ゑずけん隣寺同宗どうしう眞宗寺の什宝とす

 

今に見る本願寺御門跡堺御坊
(浄土真宗本願寺派本願寺堺別院)


本願寺堺別院 外構


山門
山門前に碑が建てられています。
向かって左 「明治天皇聖趾」「堺縣廰址」、右 「蓮如上人御舊蹟」


山門前に建てられた碑
「明治天皇聖趾」「堺縣廰址」


御成門と北西角に構える太鼓楼


本堂「信證殿」
本堂前に親鸞聖人(右)、蓮如上人(左)の立像が見られます。


本殿向拝の木鼻「吽形の獏」


本殿向拝の木鼻「阿形の獏」


堺市指定保存樹木に指定された「いちょうの木」


鐘楼 (元 念仏寺(大寺さん)梵鐘)

 現在、鐘楼にある梵鐘は、元和3年(1617)の銘をもち、銘文によれば、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼失した念仏寺(開口神社の神宮寺)のために、堺の復興や新しい町割の実施に努めた堺奉行長谷川藤広が再鋳させたものです。その後、明治初期の廃仏毀釈にともない、この地に移されたものです。
 江戸時代はじめの堺の復興にかかわる歴史的状況を示す記念碑的な資料であるとともに、現在のところ年代の明らかな市内最古の梵鐘としても貴重です。
 兵火で焼亡した旧鐘を模したためか、造形的には、中世鐘の形式を色濃く残す点に特徴があります。

 

別院会館前に設置された境内案内図


与謝野晶子の句碑
「劫初より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘ひとつ打つ 晶子」
歌集『草の夢』の巻頭を飾った歌で、晶子の自筆を刻字したものです。


句碑の裏に「与謝野晶子の会 昭和43年5月26日」と記されています。


堺別院から離れた南北の通りからも見られる本堂の大屋根。
流石に現存する堺最大の木造建築物です。

西本願寺堺別院(北の御坊)

 足利義氏の第四子祐氏が、本願寺覚如かくにょ(親鸞しんらく曾孫ひまご)に帰依きえして、一寺を創建したのがその初めと伝えられている。後、第五世樫木屋かしのきや(管理人註:かたぎやではと思うのですが案内板にはかしのきやのルビが振られています)道顕が、文明2年(1470)堂宇を再建し、蓮如を招き落慶の導師とした。また同8年には境内に信証院という一宇を営み、蓮如がここに居住した。よって、現在も信証院と呼んでいる。
 明治4年より明治14年まで堺県庁がここにおかれており、明治10年には明治天皇も、堺県におこしになられた時、ここへも立ちよられた。
 本堂は、文政8年(1825)に再建されたものであるが、堺市に現存する木造建築としては最大のものである。
 与謝野鉄幹の父が西本願寺の院内僧であった関係で、戦後晶子の歌碑がたてられた。歌碑は晶子の筆跡で「劫初より 作りいとなむ殿堂に われも黄金の 釘ひとつ打つ」ときざまれてある。

堺市

※この写真は、2007年7月に撮影したもので寺号が西本願寺堺別院となっています。

 

本願寺堺別院

本願寺堺別院(ほんがんじさかいべついん)は、大阪府堺市堺区に所在する浄土真宗本願寺派の寺院。別名は堺御坊。本尊は南無不可思議光如来。本堂、山門等多数が有形文化財となっている他、堺県庁跡として史跡指定されている。

歴史・概要

当寺は1470年 (文明2年) 、樫木屋道顕が蓮如に請い、1476年より造営され当初は「信証院」として始まった。その後京都・山科本願寺に移築され、堺坊舎が再建された時期は不明だが1728年 (享保13年) に本堂を重修。1778年 (安永7年) に蓮如堂と拝堂を建築するも1798年 (寛政10年) に表門と鐘楼を除き、本堂、広間、台所等を焼失した。1822年 (文政5年) に本堂を再建。1871年 (明治4年) から当坊は堺県庁舎として1881年まで使用された。

文化財・史跡

文化財

2019年 (平成31年) 2月22日、以下が堺市から有形文化財指定を受けた。
・本堂 – 現本堂は1822年竣工。大工棟梁は水口初太藤原朝臣宗勝。水口一門は「本願寺御大工」であり、前本堂の造営にも携わったことから本山に準じた格式であったことが窺われる。屋根は入母屋造、本瓦葺き、正面には本山格に準じる3間の向拝を設置。桁行9間、梁間11間という規模は大阪府下屈指で、堺市内では最大級。
・山門 – 桁行1間の四脚門で、切妻造、瓦葺き。近年実施された保存修理工事において小屋内に「宝暦二葵申六月」の墨書が確認され、1752年 (宝暦2年) の建築と考察される。
・鐘楼と梵鐘 – 方1間の鐘楼で、1798年の火災を免れた。梵鐘は元々大坂の陣後の復興を進めた堺奉行・長谷川藤広が念仏寺(開口神社の神宮寺)に寄進したもので「元和3年」 (1617年)の銘があり、年代が判明している市内最古の鐘。
・太鼓楼 – 伽藍の北西隅にある外観を3層とする希少な構造。1階は4間、2階は3間、3階は2間四方とする入母屋造、本瓦葺き。建立年代は不明だが江戸時代後期と推定される。
・経蔵、御成門、手水舎、蓮如堂、蓮如堂拝殿

史跡

1871年から当寺は堺県庁舎として使用され、宿院町東2丁に代わりの寺を建て移転した。その後政府方針から大阪府を拡大する方針が示され、1881年に県域を併合されるとともに返還された。大阪府から「堺県庁跡」として史跡に指定されている。

【出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』本願寺堺別院

 

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